演劇

5

身体(仕草)はイメージから引き出されたものとして在らなければならないが、言葉もまた、イメージから引き出されたものとして発されねばならない。
繰り返すが、身体は言葉から引き出されるのではない。それはイメージから引き出される。また、言葉もイメージから引き出されるのであって、その逆ではない。
イメージがすべてに先行する。
(2004年6月8日)

5.1
もちろん俳優がはじめに与えられるものはイメージではなく言葉(脚本)である。でも、だからと言って、実際に演じる際にも言葉が先立ってあり、その次にイメージが、というのではいけない。
つまり俳優は稽古の過程のどこかで、イメージと言葉の主従関係というか順序を逆転させなければいけない。
(2004年6月8日)

5.2
イメージから仕草(そう呼ぶには余りに淡く薄く思われるものも含めて)が起こされそれが身体に表れるのと、言葉が同様にイメージから起こされ、それが口にされるのとでは、仕草が表れるまでの所要時間のほうが、必ず短い。同時ということはあっても、言葉のほうが先に出てくることはない。
つまり、常に俳優の身体の中には、イメージ、仕草、言葉、の順で表れるのでなければならない。
(2004年6月10日)

5.3
イメージと仕草との表れの間の時間差または仕草と言葉との表れの間の時間差は、幾らあってもいいし幾らなくてもいい。この時間差を長くあるいは短くするよう俳優に指示することは、演出という作業の中の大きな要素のひとつに実はなり得る。
(2004年6月12日)

4

言葉を発しながらその言葉にまつわるイメージを形成するのは間違っている。イメージがないところに言葉は生まれ得ないからである。
つまりイメージは、俳優の中に、言葉を発することに先行して在らねばならない。
(2004年6月11日)

4.1
言葉を発する行為の中にはイメージを増幅させる力が確かにある。しかし俳優がその力を使ってイメージを作るのは間違っているのだし、それに、そのような仕方で生まれるイメージは大抵貧しい。源泉から源泉以上に豊かなものを取り出してくることは、原理的にできないからである。
イメージは複雑なものでなければならない。イメージは、言葉や仕草がそこから汲み上げられてくるところの源泉である。だからイメージは、まず量が多くなければならないし、そしてノイジーなものでなければならない。イメージがノイジーでなければ言葉や仕草はさらにノイジーでないものとしてしか在れないからである。
(2004年6月12日)

4.2
言葉や仕草はイメージから汲み上げられるものだが、イメージのすべてを汲み上げられるものなわけではない。言葉や仕草には、イメージを十全に形にするだけの性能はないし、なくてしかるべきである。 逆算的に言うと、言葉や仕草の性能をそのようにロー・フィデリティなものとするためには、俳優は、人が聞いたらあきれる位の多くの情報量を含んだイメージを形成しておくのでなければいけない。
(2004年6月11日)

3

ある仕草やある身体の在り方を演技としてやる場合に、それをそのとき口にしている台詞(あるいはそのとき頭をよぎっている台詞)から引き出されてきたものとしてやるのは間違っている。
そのときの身体の在りかた(仕草と呼ばれるものを含む)は、台詞からではなくイメージから引き出された結果としてのものでなければならない。
(2004年6月8日)

2

いうまでもないことだが俳優は感情を表現するというより体現しなければいけない。
そのためには、感情はあくまでイメージの副産物として表れなければいけない。なぜなら副産物としての感情だけが真に生きているのであり、主産物として作られた感情は死んでいるからだ。
(2004年6月8日)

2.1
だから強い感情を体現する場合には、俳優は、それほどの副産物が生成されるだけのイメージを自らの中に持たねばならないということになる。
いずれにせよ、俳優はイメージのことを執拗に考える必要がある。しかし感情については、俳優はまったく考えなくてよいし、考えてはいけない。
言い換えると、俳優が感情を考える際、それは、イメージについて考えるということを介した仕方で、つまり間接的な仕方で考える、というのでなければならない。
だからこの演劇論の中でも、以降、感情のことにはもうふれない。
(2004年6月8日)

1

なによりも俳優はイメージを強く持たなければいけない。
(2004年6月8日)

1.1
イメージとはなにかについてはおいおい説明する。
(2004年6月8日)

序文

演劇の方法論の確立が最終目的だとかいうならともかく、そうではなくておもしろい演劇をつくるのが単に目的だとしたら、自分の方法を体系化していったり明確化していったりすることなど不要なことだ。明確な体系をすでに持つ方法論と、方法「論」と呼ぶにはまだあまりに輪郭の曖昧な状態のものとがあって、さてどちらがより遠くにいく作品を生み出す可能性を秘めているかといえば、それは後者なのではないかと僕は思う。
方法論の体系化にもし意義があるとすれば、それは逃走する対象を明確に把握するため、それによりはっきりと逃走できるようにするため、にほかならないのではないか。

というわけで、僕は今の僕の方法を明確にしたいと思った。だから演劇論を書こうと思った。

僕は稽古場で俳優に、捕まえた感情を引き寄せないように、いつまでも掴んでいないように、すぐに手放すように、と要求する。なぜなら俳優がある感情を真に体現しているのは、その感情の認識の未然にかれがいるときだけだから。

ならば僕は、僕が俳優に求める、俳優と感情との関係の図式を、演出家と方法論とのあいだにも当てはめるべきではないだろうか。つまり、その方法論をこれ以上引き寄せないように、それをいつまでも掴んでいないように、すぐに手放すように。

(2003年4月24日)